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コルシカ ガイド (Guides de la Corse par KOMORIYA) その9

コルシカの歴史

美しいコルス(コルシカ)の風景に魅せられた旅でしたが、それはうわべだけを垣間見た話。この島の地理的背景から想像できる通り、過去には周辺の他民族に侵略された悲惨な歴史があるのです。

アラゴン(スペイン北東部地方)由来のムーア人の頭部が、国のシンボルマークになった。伝説は言う、帯は初めは目をおおったが(服従を意味する)、ついに額に巻かれた(自由の印)のだと。

CORSEの歴史 (Gides Gallimard :5 rue Sebasien Bottin Parisによる)

[有史前]

・紀元前6570年と記録されたdame de Bonifacio と呼ばれる人骨がmesee de

 Levieに展示されている。紀元前9000年から6000年にこの島に人間が住みはじめたらしい。

・紀元前3500年から紀元前3000年の間にSardeigneから運ばれた黒曜石で人は武器を作リ始めた。 

・紀元前2000年のDolmen(石の屋根と石の柱からなる建造物。お墓?)

・海洋民族

 紀元前1500年から紀元前1300年にかけて、Shardanesとも、Torreensとも呼ばれる東洋地中海由来の民、または古代エジプト人(王ファラオRamuses )が戦争を仕掛けて,巨石記念物を彫刻した巨石先住民族文明をのみこんで、コルスに侵略してきた。紀元前1300年から紀元前1100年間にはっきり覇権を確立した。巨石先住民は侵略から逃れ再び北部に向かって登った。

・コルスで 当時のイタリアの焼き物、武器、宝石などが見つかっていることから,

 紀元前1000年頃には,イタリア半島との交流関係が成立していたことがわかる。

[古代史] 

ローマからのギリシャ人

 Phocee系ギリシャ人はマルセイユに本拠地を置いていたが、紀元前565年頃から山岳地帯の土着民と接触なしにコルスの南部Aleriaに住むようになった。カルタゴ人、エトルリア(フィレンツエ付近のイタリア)人達がこのギリシャ人を紀元前540年に島から追い出した。その後、カルタゴ人が紀元前271年までこの島を支配した。紀元前259年、ローマ人のCornelius ScipioがAleviaを手中にし、島に定住、コルスとサルデニア島とを併合し、紀元前231年に12番目のローマ地区とした。その後、原住民との殺戮の戦いの末、紀元前161年に征服した。

ローマ化とキリスト教化

 Senequeは紀元41年から48年の間,国外追放されコルスに流された。彼は

 Bastia近郊で生き苦難の滞在記録を残した。3世紀にはローマ化が成し遂げられた。ローマ人入植者は島の女性と結婚した。222年Caracalla帝はコルス人を完全にローマ市民化した。キリスト教は聖なる殉教者を出しながら浸透していった。(聖Devoteは202年に蛮族の首領の命令による7番目の殉職者である)

[中世]

大侵略

 ゲルマン系のVandalesバンダール族が5世紀にコルスに侵入。聖Julieはバンダール族のFelix Saxoにより殉教した。蛮族の侵略は6世紀まで続き,ビザンチン権力,教皇そのあとにロンバルデイー(首都フィレンツエ付近の地方)と続いた。ロンバルデイーの統治は774年に完成したが,コルスをSarrasinsサラセン人に立ち向わせた。サラセン人達は10世紀まで侵略し続け,島民を高地へと退却させた。コルスの景観は形態を変え,村人達は海岸を見限り,山の斜面に隠れたり,鷲の巣を造ったりした。

コルスの封建制度

 ローマのUgo Colonna伯爵の著作伝説によれば,奪回があった。我々が参考にした歴史では,806年にPepinという名のCharlemagneの息子がムーア人に対抗するための艦隊としてイタリアから派遣されたという。Charlemagneは彼の艦隊のBuchard元帥にコルスを征服することを任せたが,成功しなかった。Arrigo Bel Messereの伝説では,それは紀元1000年に戦いで殺された。その後,コルスの事態はますます悪くなっていったという。Cinarcaの領主は封建的な形態をとり,民衆が封建的な悪党やサラセン人に対して強く反抗することを禁じた。

ピサの頂点時代

 ピサPiseとジェノバGenesがサラセン人を1014年に追い払った。1077年ローマ教皇グレゴリウス7世の時代,Landolfという名のピサの司教,ローマ教皇の助任司祭が島に法王の権力を確立するために来た。1333年ピサとジェノバはコルスの教区を分割した。南では,1195年に,ジェノバがBonifacioを征服した。北では1248年に,コルス半島の領主がピサに服従した。1248年には,Meloria島においてジェノバの艦隊がピサ艦隊を追い払った。

ジェノバの入植

 ジェノバは1195年にBonifacioに拠点を置き,1298年にCalviを創設した。Cinarcaの領主はLuchetto Doriaによるジェノバのあまりにも強い変身に反発した。そして領主Guidice Cinarcaは1299年,島を去ってしまった。その2年前,ローマ法王Boniface8世はAragon(アラゴン,スペイン北東部の地方)の王にサルデニアとコルスの王国を 与えた。その世紀の最後になると,アラゴンは,もはやその地を支配する力が無くなり ,1347年ジェノバがコルス島全部を支配するに至った。

ペストの大流行

 ペストの大流行によりヨーロッパ大陸の人口の1/3が死滅したのと同様に,ペストはそこかしこに移動してきた。コルスの南部ではGiovannali地区で発生。感染者は隔離され,そして地方の領主により皆殺しされた。

コルスのジェノバ人

 1352年を境にして,地方の有力者達により、島の領主の封建的支配を助けるジェノバ に好意的な軍人達に対して革命の波が起きた。その最も有名な有力者は、Sambcuccio d'Alandoで、北部でterra dei cmune土地の共同体という形態をとった。南は北と違ってterra dei signori領主の土地であった。ジェノバ人達はコルスをla Maonaというある種の間接的統治形態で財政上の社会を統治していた。

 1420年に、封建領主(大地主)のArrigo della Roccaはアラゴンがジェノバ人の戦略上の場所であるBonifacioの街を取り囲んだので、島の統制を再びアラゴンのAlphonse5世に譲った。la Maonaは失敗に終わり、それを1453年l'Office deSaint-Georgesが後を継ぎ、ジェノバ共和国ではfermier general「一般農民」としての役割を演じ た。Officeは,その後、コルスの経済的な機構改革を再構築すべく計画し、1550年までにその計画は達成された。

[近代]

Sampiero Corso(人名)

 フランスHenri IIアンリ2世の軍隊が1553年8月23日にコルスに上陸した。ジェノバ 人は応戦し、1599年4月3日Cateau-Cambresis条約により、コルスはジェノバ人に返された。フランスから派遣された軍人Sampiero Corsoはその再譲渡を拒否し、圧倒的な軍事力で戦った。彼は妻Vannia d'Ornanoを殺害罪の身から、フランスによって生まれ変わり、オスマントルコの皇帝をめざしたが、成功はしなかった。彼は1564年Valinco湾から島に上陸して、人々の話題をさらった。Vannina一家は彼を1567年暗殺した。

軍による治安

 島の価値を手にするためジェノバ人は住民や入植者を定住させた。入植者は共同体の農耕遊牧民との絶え間ない潜在的戦闘状態のなかで、うまく経済的に生き延びた。1611年から1617年の間に、北の地方で散発的に起こる反乱に加えて、コルスは2親族 間の血の敵意と復讐(vendette)により打ちのめされた。ジェノバ人の伝えによれば、この家族間抗争で日に3人、30年間で3万人死んだという。

40年革命

 1729年税徴収に関して暴動が続き、コルス全土に広がった。1730年Bastiaは略奪に襲われた。同年、反乱軍はコルスの国民の最初の将軍Luigi Giafferi とAndrea ceccaldi を選んだ。1731年ジェノバ人は皇帝Charles4世Vaincuesの軍隊を呼び、翌年、反乱を鎮圧した。ジェノバ人は皇帝による土地支配権の払い下げに同意した。

 1733年Giacinto Paoliが2度目の革命を指揮した。

 1735年1月30日、独立が宣言され、Corteに政府が出来、その時からconsultaという議会を作った。国際的に政権の合法性を求めるために、革命政府はTheodore de Neuhoff男爵を王に選んだ。1736年4月15日、選挙があり、王は11月13日島を去った。

フランスの介入

 ジェノバ同盟に要請されて、Louis XVルイ15世の軍隊が1738年2月8日にコルスに上陸した。そしてBorgoを12月13日に解放した。1738年3月にMaillebois伯爵が援軍と共に再来した。7月にはコルスの王を降伏させ国外に追放した。

 1739年にフランスが調べたコルス島の人口は、120、839人であった。

 1741年3回目の暴動が起きた。コルスは革命され、イギリス、オーストリア、サルデニア同盟(オーストリアは王位継承戦争中で、スペインやフランスと対立していて、ジェノバと連合していた)をBastiaで結んだ。その同盟は1748年9ga10月Aix-la-Chapelleの和平のあと消滅した。de Cursay侯爵がフランス王とジェノバ人の支持の下でコルスの行政を行った。

 1752年にコルスの愛国者はGian Pietro Gafforiの指揮の下に反乱を蜂起しde Cursayは追い払われた。1753年、ジェノバ人はGafforiを暗殺した。

 1755年、蜂起した人達はGafforiの代わりにde Giacinto Paoliの息子のPasqualeを国の将軍に選んだ。11月16、17、18日に国家体制が構成され、Corteで議会が開催された。

 1762年、アラゴン(スペイン北東部地方)由来のムーア人の頭部が、国のシンボルマークになった。伝説は言う、帯は初めは目をおおったが(服従を意味する)、ついに額に巻かれた(自由の印)のだと。

 若いスコットランドの貴族Boswellは、コルスの革命に心をそそられ、Account of Corcicaコルシカ物語を書き、ヨーロッパ中で大評判となった。Jean -Jaques Rousseauは彼の著書Contrat social社会契約論の中でコルスの例を引用している。Pasquale Paoliは光の知性のフアンであったが、地方だけの自由主義を打破し、世界に開かれたコルスを確立することに努めた。Rousseauを憲法を練り上げた人と呼ばなければならない。1765年、彼はCorteに大学を開き、Olettaに国立印刷所を開いた。1767年、彼は海軍を作りカプリ島を奪った。ついに、Theodor王の元通貨と戦った。

フランスのコルス

 ジェノバ人の経済状態が悪化したおかげて、1768年5月15日、ベルサイユ条約によりフランスはコルスの譲り渡しを受けた。7月に、フランス軍はコルス半島を手に入れ。10月8日、9日にはフランス軍はBorgoで戦った。1769年5月8日、フランス軍はPonte Nuovoでコルス愛国戦線を押しつぶした。1769年7月13日,Pasqual Poliが亡命するため島を去った。20年かかってフランス王国はPaoli憲法を解き放った。1774年le Nioloで起きた反乱は残忍さを持って鎮圧された。1770年、服従と引き換えに、80家族(その中にはBonaparte家も)が貴族の称号を 与えられた。彼らは土地の払い下げと官吏の地位をまかされ、大陸から来た他の貴族に近い地位を与えられた。

フランス革命

 1789年,Bastiaで暴動の高まりの下で、国民議会は、コルスは、国家の不可欠な部分であるとの声明を出した。(参考:バスチーユの監獄奪取は1789年7月14日)

 1790年、コルス島はフランスの県として認められた。Pasqual Poliは、1769年以来イギリスに亡命していたが、パリに戻り、先駆者として熱烈に歓迎された。1790年、彼はコルスに上陸し、そこで県知事、国防総司令官になった。

イギリス・コルス王国

 フランス国民公会はコルス島をle Golo(Bastia),とle Liamone(ajaccio)の2つの県に分割した。Paoliはジャコバン党(Jacobin、強硬な中央集権的協和主義)によって熱意がないと判定され:Bonaparteの扇動で、市民戦争の中でコルスをうまく統率できなかったとして、国民公会はPaoliの拘留を決議した。Paoliはイギリス軍を招請し、イギリス艦隊はコルスの主要都市を取り囲み占領した。

 1794年、6月10日、イギリス・コルス王国le royaume anglo-corseが宣言され、Corteに議会が開かれた。Sir Gilbert Eliottは、イタリア語を知っているスコットランド貴族で、Paoliの大奥様の副王に任命された。

 1795年10月sir Gilbertに反対する暴動を指揮した事で、GilberはPaoliを島から追い出した。1796年、イギリス艦隊が出発した後で、イタリアに居るNapoleonとLucien Bonaparteによって指揮されたフランスの軍隊が、コルスに足を踏み込んだ。

 1798年,Crucetta(小さな十字架)と呼ばれる暴動がおこり、血で鎮圧された。

ナポレオン1世のコルス

 1799年、ロシアで続いた、いわゆる反乱がle Fium 'Orboでおこった。鎮圧は野蛮で、Monando将軍は、1803に任命され、沢山の強制収用や処刑を行った。それは1811年Berthier将軍に代わるまで続いた。同年、皇帝はコルスを1県にまとめた。そして、コルスに税務の移譲を与えた。

[19世紀]

衰退

 コルスは貧困に陥り、近代化の方向に向かった。偉大な文豪がコルスに行っている。

 Balzac,Duma,そしてもちろんMerimeeも行って1840年にColombaという本を書いた。その主題は、名誉、悪党、コルス島の2親族間の血の復讐(vendetta),産業革命につきまとう変化の目撃などである。

交通網と連絡

 1827年、BastiaとAjaccioを結ぶ道が完成。1830年、コルスと大陸との連絡船が就航。交通網はナポレオン2世の時に完成した。それは、この19世紀の終りにかけて、コルスがかすかな経済振興を知った頃であった。

 1883年フランス共和国はBastia-Ajaccioの鉄道の財政的援助をした。工事が断念されていた、Bastia-Porto Veccio間の鉄道は1935年まで完成が遅れた。

義賊と他の人

 村村間の交通網作成は義賊に対する戦いでもあった。沢山の殺人があり、1825年80人、1896年54人もあって、コルスは殺人統計の筆頭にとどまっていた。1822年、義賊に対抗する見せしめに、その死体をつるし上げた。ナポレオン2世の崩御の後、独裁者の祖国と戦うよりも、 フランス本国からの、コル スの分離を要求しようという考えが義賊の住むコルス人の間に強まった。

[20世紀]

貧困

 1905年のFallieres大統領Georges Clemenceauの報告によれば、貧困が大勢の島民の亡命を引き起こし、ある者は軍隊に入り、ある者は植民地に出ていった。第一次世界大戦では、20000人のコルスの若者が死んだ。集団移動は1931から1938年にかけて増加した。その間の統計によれば、年間6300人、合計180000人が島から出たという。

第二次世界大戦

 1938年、イタリアのファシストの声が大きくコルスにもおよんだ。同じ年、Bastiaの宣誓はコルスをフランス国籍のままにしておくと宣言した。1942年の終りに、北アフリカに同盟国が上陸した後、イタリアの軍隊がコルス島を占領した。

 1943年9月、コルスは、レジスタンス活動を活性化させ、そこがフランス最初自由県となると思われたので、重要視した軍隊が占領した。

地方分権主義

 アルジェリアからの大勢の引揚者がコルスに入り、経済は失敗し、選挙違反の数々が、情熱をかき立てた。le Front regionale corse(FRC)が1966年に創設され、l'Action regionaliste corse(ARC)が1973年に創設された。1973年、その活動が分離独立主義になっていった。彼らは、Ajaccioでゼネストを倍増させて、イタリアの会社MontedisonがTyrrhenienneの海に毒性廃棄物を投棄するのを阻止した。

Aleriaの大事件

 1975年l'ARCの軍隊(大多数は農民)がアルジェリア出身の地主のワインカーブを占領した。デモ参加者襲撃のときに、2名の憲兵が殺された。1週間後、一人のCRSが暴動 のときの傷で死んだ。翌年、FRCは地下にもぐった。襲撃以来、組織は沢山のテロ行為を行い、「フランス植民地化に反対する戦い」との声明を出した。

今日のコルス

 1975年、コルスは2つの県に分かれ、la Haute-Corseとla Corse-du-Sudになった。

 1769年に閉鎖されたCorte大学が、1981年に再開された。翌年、フランス国民議会はコルス島に特別な地位を授け、それは1991年に改訂された。分離独立派の軍隊と独立派のゲリラ(clans)、こちらはフランス政党と密着する、との間の戦いで、かなり痛い成り行きになっている。1991年に可決された法案で、文化、経済、社会的 国家の権限は、一般選挙で選ばれたコルスの議会に移された。(訳:小森谷)