南太平洋ニューカレドニア          

今から15年前のことです。 42歳になった年の冬に、左前胸部に痛みと濃いたんが出現し、自分なりに治療しましたが一向によくならないので、胸部レントゲン写真を撮ってみると左下肺野にコインレージョン(まるいかげ)が写っているではありませんか。普段は吉日、凶日など迷信だと思い、空いているのを幸いと仏滅の日に結婚式を挙げた私でも、今度ばかりは、やはり42歳男の厄年というものはあるのだと思いました。水曜日午後6時に医院の外来を終えてから新宿のホテルに直行し、木曜日早朝から肺癌のレーザー光線治療で有名な東京医大の早田外科を受診しました。気管支鏡、気管支造影などの検査を受けて、翌日の金曜日には、なにくわぬ顔をして、外来で私よりも軽症な患者さんを診て、昼休みになってやっとソファーに臥して、検査後の鮮血の混じったたんを紙にとりながら、じっと天井を見ているだけの虚脱状態になっていました。結局病因は不明のまま、春になると症状は軽快してしまいました。体力に自信をなくしたので、夏休みはどうしようかなー。そのとき、東京港区白金台の大学病院に勤めていた頃の一人の中年患者さんの事が思い浮かんできました。病床のなかで彼は繰り返し言いました「南洋は良いよなあ。病気が治ったら南洋へ行って住みたいんだ。南洋は良いよなあ」と。南洋? そうか南太平洋か。時差ぼけにもならないし、ニューカレドニアならフランス語で間に合うし、疲れなくてすむなー。
日本を出発し8時間後の早朝現地着。機内でよくねむれたから気分爽快。
ブーライユ(BOULAIL)
首都ヌメア市内バスターミナルにブーライユでの農業祭のツアーの貼紙があったので申し込んだ。朝7時、運転手が乗客の点呼開始。呼ばれた人は「セ、サ、」と答えていた。これから北へ向かって170kmも走るにしてはメルセデスのマークをつけた紺色のバスは、ちょうど日本の幼稚園バス位の大きさで、乗り心地はあまり良くない。途中から金髪の美人が乗り込んで、最前列の席で運転手さんと親しそうに話していた。残念ながら彼女は30分程走ったところの高原の牧場で降りてしまった。そのあたりは数軒しかなく、風力発電の風車が回っていた。その後バスは停まることもなく高原の道を時速80km 位のスピードで走り続けた。最後部座席のオーストラリアからきた若者達が動物の声をまねて、退屈している皆を笑わせていた。冷えてきたのでアノラックを着た。ようやく農業祭会場に到着。受け付けを通ると、皆が目指すところは同じ。長時間の涼しいバスで、トイレに行きたくなっていたのだ。四角い小屋に3つの扉がついていて、3列に分かれて順番を待つ。男女の区別などない。前の女性がスカートのすそをたくし上げたまま、晴れ晴れとした顔をして出てきた。やっと私の番だ。入って見ると四角いコンクリートの一隅に穴があいているだけの簡単な造りで、用をすませてふと前方を見ると握りのついた紐があった。これで水を流すのだなと思って紐を引いてみたら、頭の上から冷水が降りかかってきた。アノラックを着ていたから良かったけれど、何とトイレだと思っていたところはシャワー室だった。会場は草競馬場のような広さで中央は農業機械(トラクター)の展示、メインスタンドあたりでは馬の障害跳び、室内では皮製品(カウボーイハット、ベルト、鞍)、日用品、食料品などを売っていた。そのうちに、色とりどりのパラグライダーの人達が次々と空から降りてきた。昼時人々はパンと肉片とを交互に刺した500円くらいの串焼を食べていた。人ごみを分けていき2000円位で直径30cm のブーニャを買った。これは地元ではご馳走らしく、木陰で食べようと包を持ち歩いている道で、人々は指差しながらブーニャ、ブーニャとうらやましそうに見る。ブーニャとはタロイモ、ヤマイモ、サツマイモ、鶏肉、マンゴー、サゴヤシでんぷんなどをバナナの葉で包んで火の中で蒸し煮したもの。買ったものは塩味なし、鶏肉は脂ギトギト、そしてイモまたイモ。腹一杯にはなったけれどもまずかった。夕方5時、帰りのバスが迎えに来る約束の時間。30分過ぎても来なかった。時間を聞き間違えたかな? そんなことはない、朝一緒に着た人達も集まっていた。そのうちの男の子が喉が乾いたと言い出して飲み物を買いに行ってくるという。デペッシトア(急いで)!と父親が叫んだ。赤い土ぼこりを上げながら、次々と車が走り去る。見ていると、ピカピカの外車(みんな外車だが)に乗っているのは白人で、ボロボロのポンコツ車はゴリラのような顔だちの現地人だ。6時、雨がポツリと降りだした。会場では夜の部に入ったのか、女性歌手のオペラのアリアが聞こえてくる。まだ迎えは来ない。そのとき、一人の娘さんが「バスは来ます」と日本語で言った。その場には私と妻しか日本人はいなかったのでビックリした。彼女はイギリス人で、暖かいニューカレドニアにあこがれて来て、英語を教えながら日本語を学んでいるとのことだった。6時半、やっとバスが来た。イカリヤ長介の様な顔だちの運転手は、道が渋滞していたとか、ガソリンが切れたので補給していたとか言い訳をしていたが、要するに昼休みを長くとりすぎていたのだろう。
アメデ灯台
この灯台は、はるか沖合いにあるので、着くまでに船酔いしてしまい船底で横たわっていた。島に着くと、人々は一斉に灯台に登り始めたが私は下でのびていた。昼頃には元気になり、歌やダンスショーを楽しんだ。客の中からルノワールの絵に出てくるような体型のオーストラリア人女性がはにかみながら、皆の前で踊って見せた。昼食は味付けの良い鳥がメインでココヤシの内側の白色固形油脂がデザートのつまみだ。旅行ガイドに書いてあるトイレに行くと、錠がかかっていた使えなかった。船に戻ろうとしても閉まっていて入れない。陸に上がって乗務員にどうするのと聞いたらナチュレ(自然のなかに)という返事。勘を働かせて白い砂浜の木陰に行くと、白い紙がチラホラと落ちていて納得。とにかくトイレはあっても錠がかかっていることが多い。
エスカペーデ島
今日はエスカペーデ島へ行く日だ。安ホテルに泊まったので、従業員は皆通勤してくるから早朝はホテルのドアは閉まったままだ。出口をさがして、やっと2階の非常階段から外に出る。しかし例によってバスは来ない。間に合わないのでチケットを買ったおじさんに話したら、彼の車で急いで船まで送ってくれた。エスカペーデ島では、プールで泳いだり、色とりどりのサンゴの破片をあつめたり、クモ貝、サザエなどを採った。2回分の飲み物券をもらったので、1回目は私がサイダー、妻がビールを飲んだ。昼過ぎ、2回目の飲み物のとき、私も妻もパナシェにすることにした。名物だとは聞いていたが、どんな飲み物かは知らないので楽しみにしていた。注文するとお兄さんがグラスに半分程サイダーを注いだ。変だなと思っていると、その上にビールを足した。何のことはない、あれほど沢山の種類の飲み物がある中から2度とも同じものを選んでしまった。パナシェとは、サイダーとビールとを適当に混ぜたものであった(変な取り合わせのようですが、とてもおいしいですからお試しあれ)。その日の夜、ホテルに帰ってから、採ってきたサザエをナイフで切って醤油で食べてみた(コレラにならないかと心配だった)。真夜中、ギュー、ギュー、ズンタッタ、ズンタッタという妙な音で目が覚めた。耳を澄ますと洗面所の方から聞こえてくる。恐る恐る洗面所の扉を開けると、洗面台のボールの中をクモ貝が大きな足をだして歩き回っていた。
動植物公園
昼過ぎ、ヌメア郊外の山の上にある動植物公園へタクシーで行った。国鳥のカグー(cagou)や熱帯植物を観察し終わる頃には夕方になり人影もまばらになっていた。公園事務所の人にタクシーを呼んでくださいというと、只今電話が故障していて使えませんという。しかたがないのでバス停までの道順を紙に書いてもらって、徒歩で民家のある平地まで山を下りた(いつも乗り物のトラブルが付きまとう)。
やしの実
南洋へ行くにあたって私の願望の一つは、やしの実の水を飲むことであった。市場のおじさんにそのことを話すと、青いのはカライからと熟した実をえらんでくれた、ナタのような刀でスパッとその端を切ってくれたので、ストローを差し込んで港の岸壁に座って飲んでみた。ほとんどただの水と同じで、そこにごく少量の砂糖をとかしたような、うす甘い味だった。
レストラン
最後の晩、フランス人のレストランに入った。ニンニク風味サラダとはどんあものかなと注文してみたら、ニンニクを内側にこすりつけて香り付けしたお皿に、緑の野菜が入っているだけのものでがっかりした。フォアグラをのせたステーキを食べていると、シェフがテーブルまであいさつに出てきて、フランスのガスコーニュ地方の出身だという。私たちは前年にボルドーへ行ったと話したら喜んでいた。店を出るときにそのシェフが追いかけてきたので、そんなに故郷がなつかしいのかと思ったらとんだ大間違いで、私のベルトの横に店のナプキンが挟まったままなのを見つけて、それを取り返しに来たのだった。デゾレ(すみません)。
おみやげ
貝殻やサンゴもいいけど、市内のスーパーで売っているRoyal Pacific という名のコーヒーが味、香り、コクともに絶品だ。
やっぱり南洋は良かった。