初めてのフランス行き

どうした事でしょう、フランスに初めて行ったときの旅行記を私はまだ書いていませんでした。今年2002年は諸般の事情でフランスには行けませんので、初めて行ったときのことを、思い出して書いてみましょう。

1.出発

今から20年前、当時はそれほど気楽に個人旅行している人はまれで、一般に、日本人はJALパックというパックツアーで海外旅行をしていました。幸い、妻が外国語学科卒で、学生時代にパリ、ドイツに行ったことがありますので、妻がガイド代わりとなり、私の初めての海外旅行は、いきなり個人旅行となりました。目指すはアルプスの町シャモニーです。

安ければいいという基準で航空券を手配したものですから、飛行機はアメリカ大陸を横断し大西洋からフランスに向かうという、気の長い時間のかかるルートになりました。成田空港を離陸するときのスリルを初めて味わい、どんな機内食が出てくるのか、わくわくしながら待っていたのですが、大柄のアメリカ人スチュワーデスさんが、ぶっきらぼうに投げ与えるようにテーブルに置いたトレーの中身を見てがっかり。やせた鶏の脚1本と細いソーセージ1本で、見たとおりの塩辛いだけで、すこぶるまずい食事でした。このような、客を馬鹿にした航空会社は許せない、と思っていたら、本当に翌年倒産してしまいました。この会社こそ、世界の空を知っている、というコマーシャルで知られた、PANAMERICAN航空でした。今にして思えば、当時経営が行き詰まって、機内食をケチらざるを得なかったのでしょう。

機内で隣席の男性がくしゃみの連発です。みると、半袖シャツ一枚しか着ていませんので、私のアノラックを貸してあげました。東京大学工学部の先生、と広島大学の先生でフランクフルトの学会に出席するとのことでした。飛行機の窓からは、かつて地理の教科書で習ったものと同じ形の5大湖が見えたりして、やがてニューヨークケネデイー空港に到着。空港内で別便に乗り換え(トランジット)のとき、係員にアメリカのビザを持っていないから、と止められ、困惑しましたが、しばらく待たされた後なんとか移動を許され、今度は、夜中の空港のベンチで長時間パリ行きの飛行機を待ちました。この空港でコンコルドの姿を初めてみました。真夜中出発、機内はがらがらで、3人分の座席を使って横になり、翌朝パリ着。入国審査のゲートで、黒人の係官の窓口が、寝ぼけ眼で大あくびの連発、目の焦点が定まらないのか、私の顔とパスポートの写真を何度も何度も繰り返し見ていて、なかなか入国させてくれない(昨今のフリーパスとは大違い)。フランスという国はこんな怠け者でも、公務員になれるのかと思いましたね。空港から無料バスでSNCFロワシー駅に行き、パリ北駅までの切符を買いました。ここでも、出札窓口のマダムは目でこちらを見つつも友達との電話に専念していて、なかなか切符を売ってくれません。どうしてフランス人はてきぱきと仕事をしないのかと、日本との違いを痛感しました。

2.パリ

やっと列車に乗り、一息つき、我に返ると、本当に私は今フランスにいるのだろうか、と信じられないような気持ちになってきました。あらためて車窓から駅舎や住宅をながめると、確かに、フランスの住居の形をしています。ついにフランスに来たんだなと実感し、じわーと感激がわいてきました。

まだミッシュランのガイドなど知らなかった頃ですから、空港に近い方がいいだろうという単純な考えで、北駅の近くで、適当に安ホテルを探して泊まりました。廊下は薄暗く、スイッチを押してもすぐに照明が自動的に消えてしまうフランス式節電にとまどい、青い水(おそらく古いボイラーの緑青)のお風呂はすぐにお湯から水に変わってしまい、糊だけで形を保っている薄っぺらなシーツ、スプリングがへたったベッドは中心に向かって窪んでいて、隣の部屋で昼間から愛し合っている男女の声が壁越しに聞こえてくる。咳ばかりしている青白くやせた亭主が、夜はすぐ寝てしまうので、ホテルの入り口の鍵はお客さんが閉めてくれという。肺病じゃないのか。翌朝、食堂のフランスパンは、前日の残りのようでひからびているし、色だけで香りのないコーヒーというしろもの。最初に鍛えられたので、今後、どんなホテルに泊まっても、驚かないでしょう。

翌日、昼間ルーブル美術館などを見て、セーヌ川の橋から川面に光る夕日を見る。どちらが上流なの、どちらが左岸なの、と妻に尋ねると、突然まゆがつり上がり、そんなことわからないわよ、何でもかんでも質問ばかりして、とすごい剣幕でどなられました。そうか、そうだよね、彼女に何でも頼りすぎて、疲れさせてしまったんだね。私は深く反省し、妻をなだめつつ、夕日が西側だから、こちらが南で左岸なのだよね、と自分の頭で判断し、フランスに着いて以来、ようやくこの時点で自立しました。

星のついたレストランにあこがれていたので、一番探しやすい、パリ・リヨン駅構内にある、当時の一つ星レストラン、Train Bleuトランブルーに行きました。重厚なタピスリーの下がった室内に驚きながら、高級レストランでの食事は、前菜、魚、肉、デザート、ワインと全部注文しなければいけないのだろうな、と、無知な私は勝手に思っていました。先ず、巨大な丸パンが、テーブルに置かれ、前菜のフォアグラ・ゼリー寄せが出てきました,10cm四方厚み1cmもあるもので、美味しくて本当に忘れられないフランス最初の味となりましたが、お腹にズシリとこたえ、白ワインと共に食べただけで、早くも満腹感で、パンには全然手を付けられません、サラダドセゾン(ただのグリーンサラダ)で口直しし、ソールムニエルを食べているうち、ワインが効いてきて頭がボーとなり、めまいのような、眠気さえおそってきて、後は何をたべたのだろうかしら。こうして、私のフランスレストラン初見参は終了しました。

リヨン行きのTGVに乗る前に、サンドイッチ売り場に行きました。日本と同じ感覚で、人の横に並んで注文しようとすると、売り場のかっぷくの良いおばさんに、後ろに並べと、怒鳴りつけられてしまいました(カルチャーショック)。でも、その後、駅の別の売り場で果物を買ったとき、ブロンドの娘さんが、Voilaボワラと美しい声でオレンジを渡してくれたフランス語が、私には、とても新鮮でうれしくて、今でも耳に残っています。

リヨン

リヨンの駅前広場の噴水でnon potable(この水は飲めません)という表現を覚えたり、本屋さんでポールボキューズ、ダン、ヴォートル、キュイジーヌという料理の本を買ったり、ジャック・ダニエルのカーデイガン(20年たった今でも愛用、グレーをベースに赤青白のトリコロール模様)を買ったり、織物博物館を見たりして、楽しみましたが、ミシュランのガイドブックも知らない当時の私ですから、レストランは行き当たりばったりで決めていましたが、はずれはありませんでした。個人旅行は自由きままですが、弱点は時間の無駄が多いこと。リヨンの午後、雷雨に出くわして、2時間あまり、店の軒下で見知らぬフランス人達と無為に雨宿りしたこともありました。

シャモニー

駅に着いて、構内にコインロッカーがあるのを見つけ、荷物をいれようとしたら、横からイギリス(であろうと思われる)青年が大きな荷物を入れて、にやっと笑ってエクスキューズミーと言って、立ち去りました。見ると、それが最後のロッカーで、もう空きは無い。ぼやっとしているから、さっさとしないから、といわれても、もう後の祭り。当時の私は、荷物をリュックで背負うバックパッカースタイルで持ち歩いていましたから、その後ずーとリュックを背負ってシャモニーを歩きました。とにかく疲れていたので、駅前通りのピザ屋でフリュイドメール(なんで山に来て海産物なのですか、と聞かないでください、とにかくそれが食べたかったのです)のピザとコーヒーを頼みました。どうやらコーヒーの種類をよく分からずに注文したらしく、コーヒーのカップがデミタスだったので、もう一杯注文しました(最初はこんなものです)。さて、ホテルを探しにメインストリートに向かいましたが、どのホテルも満員で空き室がありませんでした。どうしようかと妻に聞いたら、それでは、以前私が友達と泊まった、街はずれのASTORIAホテルに当たってみましょう、という返事。それは駅を出て左手の方の彼方にぽつんと建っている古いホテルでした。幸い部屋が取れて、一安心。妻にとっては、メインストリートのホテルに泊まりたかったでしょうに、またしてもこのホテルになってしまいました。でも、景色は抜群で部屋の窓からアルプスが一望出来、ホテルの人達は親切で、朝食に出るクロワッサンはとても大きくて美味しく、このASTORIAホテルのものはフランス屈指のクロワッサンだと、今でも印象深く思っています。

シャモニーの街はそれほど大きくなく、街の中を急流が流れています。山岳用品の本場ですから、ミレーのリュックサック、当時はまだ日本には無かったウエストポーチsac banane、プリングルのセーターなどを安く買うことが出来ました。

妻の案内で、ケーブルカーを乗り継いで、いよいよモンブラン展望台行きのエレベーターに乗り込むと、係りの大男が赤鬼のように顔を紅潮させて、サックとか何とか叫んでいますが、何を言っているかわかりません。そのうち、彼は私の所に走り寄り、背中のリュックをむんずとつかんで床に引きずり下ろしました。隣の細身のイギリス紳士が、苦笑いしながら、あの係りはリュックを下ろせと叫んでいたのだよ、と私に、英語で教えてくれました。早口のフランス語なんて、からきし聞き取れません。昔、日本は敗戦直後、アメリカの進駐軍が統括していました。そのころ、近所の駄菓子屋で進駐軍横流しのサックというものを5円で売っていて、それは白い粉の着いた薄いゴム製品でした。子供達はそれを買ってきて、水を入れて大きくしてガシャガシャと音を立てて振り回したり、薄いゴムを口で吸って、小さな風船を作り、プチッとつぶして遊んでいました。それを見て、私の父は、のどにつかえて危ないから、買ってはいけないと私にいいましたが、子供心に理不尽なことをいうと思いました。遊び友達の輝男さんは、近所の川で一緒にフナ釣りをしていたら、白いサックを釣り上げて、みんなから笑われていました。後で大人になってから、わかったのですが、コンドームのことを当時サックと言っていたのです。どうりで父親が買うなといったわけです。

フランス語でサックsacとは袋のことでこの場合はリュックサックsac a dosのことで、ハンドバッグはサカマンsac a main(手に持つ袋)といい、手袋はガンgantといいます。日光から東照宮に向かって東武バスに乗っていくと、次の停留所はサカマンの湯澤屋前と案内しますが、これは酒まんじゅうの湯澤屋の省略です。

展望台からは、白く滑らかなモンブラン、針のようにとがった山頂が連なるエギュイドミディが見渡せる絶景が広がります。更にロープウエイで雪の上を眺めます。イタリア側と連絡していて、向こうからは陽気でおしゃべりなイタリア人のグループが来ます。

すっかり雪のアルプスを堪能して、ホテルに帰ると、妻が軽い高山病になり、食欲無し、ホテルのレストランで、シタビラメのアーモンド焼きだけを頼んで食べていると、これを不思議そうに見ていたフランス人の子供が、ポアッソンだよ、お父さんと叫びました。そうさ、日本人は魚を食べるのだよ、と父親がその子に説明していました。耳が慣れたせいか、このフランス語は私にもきちんと聞き取れました。

翌日も快晴。今日は、すべて妻の案内でバス停から市内を抜けてケーブルカーの駅まで行き。山頂駅からLAC BLANCラックブランという湖まで歩くコースです。快晴といっても、時折ガスで道が見えなくなります。そのときは赤いマークの付いた岩が唯一の頼りです。石ころ道を歩いて汗かいたころに小さな湖に着きました。出かける前に街のお総菜屋さんで買い込んだ鮭のゼリー寄せで、とても美味しい昼食となりました。

快適なハイキングです。帰りは、ロープウエイを使わず美しい景色を見ながら山を下って、そしてまた、バスでシャモニーに戻りました。とても良いコースです。

暮れなずんだシャモニーを後にして、ニース行きの列車に乗り込みました、車窓から、真っ暗な街の彼方に残照を受けてピンク色に輝くアルプスが見えました。息をのむような神秘的な美しさでした。(初めてのフランス行き完)